~人生は旅である。その旅路で出会う様々な香り。ふと、ある香りを嗅いだ時、思い出される記憶がある。そんな香りにまつわるショート・ストーリー。~
第一話「カオスの匂い」
午前0時を回った空港には、肌にからみつくような湿気と、まったりとした暑さ、そして深夜とは思えないほどの大勢の出迎え客の姿があった。1991年3月。初めて、タイ、バンコクのドン・ムアン空港に降り立った。約30年前のタイは、深夜の闇の中に全てを包括しているかのような怪しい魔力に満ちていた。
それが初めての海外旅行であった私には、ことさら刺激的であった。空港から郊外のホテルに向かうタクシーの車窓から眺める景色の中には、日本では見ることのない蛍光色のネオンが暗闇に怪しげに浮かび上がり、そのネオンの向こうにはいったい何があるのだろうかと、私はただ吸い込まれるようにじっと闇を見つめていた。その後、この国に永く住むことになるとは、露ほども思わずに。
タイ生活を経験した日本人が良く語ることの一つに、「バンコクの空港の匂い」がある。2006年新たにオープンしたスワンナプ―ム国際空港ではなく、それ以前に東南アジアのハブ空港として活躍した、この「ドンムアン空港」の匂いである。これは香り、というより匂いという方がふさわしい、生々しいものである。初めてこの空港に降りたった瞬間、もわっと立ち上る湿気と共に、南国の花を思わせるような濃密でどこか甘ったるい香りがした。その中には、街のざわめきや人や車のひしめき、ネオンの波のさざめき、そういった全てが絡み合っていた。私はこれを「カオスの匂い」と呼んでいる。タイに永く住む人たちは、空港に降りた瞬間に足元から立ち上るこの匂いで「タイに戻ってきた」と、感じるのである。タイの歴史を見守ってきたドンムアン空港には、新空港にはないこの「カオスの匂い」が今もある。
東南アジアを代表する花の一つに、「イランイラン」という花がある。タイでは時々この花の咲く木が見られる。この花は、タイのネイルダンスのように花弁の先がくるりと反っている。そして濃厚で芳醇な香りを放つ。この花の精油は香水の原料としても高値で取引され、魅惑的なエッセンスとして香水産業には欠かせないものとして知られている。この精油は、随分前に性的な魅力を増幅させるということで、巷で話題になったこともある。
バンコクのドンムアン空港を思う時、いつもこのイランイランの香りを思い出す。空港に降り立った瞬間に、足元から立ち上るようにからみつく香りは、イランイランのように甘く濃厚で艶めかしい。そして、タイという国に息づく光と闇を包括した「カオス(混沌)の香り」そのものである。
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